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[nikomat:11042] [---yota] Book SL
宮崎@歳がばれてくる です。
わかんない人・興味のない人ごめんなさい => 次のメールへ
こういうの書き出すと長くなるな(先週から書いている)。
だんだん取り留めが無くなってくるし...
しのじま さん:
>「蒸気機関車」に掲載されたのは良いが、編集部にネガを紛失されて
>しまった。 ウルウル ^_`;;
白黒写真全盛時代に作られた、ファンによる投稿主体の本でした。タイトル
どおり「蒸気機関車」しか原則扱わないという結構濃い内容の雑誌でした。
実物の蒸気機関車が消えても5年間以上走っていましたが(隔月刊誌)、昭和
56年に静かに消えていきました。編集部は実質2人弱で、あとはバイトだっ
たと思います。写真の達人も居て、作品によっては投稿者からネガを借りて
覆い焼きやら何やらやっていました。そのような手間がかかり技術もいる様
な事をやっているところは今の商業紙ではないでしょう。
でもネガを紛失されたのはシドイ...
>私、きしゃ関係の写真止めるとき、すべての雑誌すてたんですが、その雑誌だ
>けは残しました。いまも持ってます。古本屋であさったりしたんで、かなりあ
>ります。探してみよう。あれ、キネ旬発行で、良く知らないんだけどコロタイ
>プ印刷っつうやつで、白黒がきれいっていうふれ込みの雑誌でしたよね?
>あの雑誌の中にネコ出版の原型もかいまみれる、、、、
買ったばかりの「蒸気機関車」誌を開くと、タブロイド印刷(だっけ?)独特
のインキの匂いが鼻をつきました。他の雑誌の白黒写真と違って「黒が締まっ
て」いました。ネガを借りた中から撮影者の了解を取って六切りに焼き増しし、
オリジナルプリントのプレゼントとかもやっていました。今考えると結構手
間が掛かることをしていました。応募したけど当たらなかったです。
定期発行の鉄道雑誌のバックナンバーは余り価値が出ませんが、あの雑誌に
限っては別物で、プレミアムが付いているようです(人から聞いた話です)。
私は実物の蒸気機関車が消えた1976年のNo43から、終刊のNo74まで持ってい
ます。創刊直後は不定期で、その番号系列とは別に何冊かあるようで、詳細
はNo50記念号の記事にあったと思います。写真が掲載されたというB5サイ
ズの増刊号は、相当古い号だと思います(昭和42〜45年?)。ネコ出版といえ
ばRM(Rail Magazine)ですが、現編集長の名取氏は当時結構投稿されてい
て、終刊前のある期間はバイトという形で編集の手伝いをしていた筈です。
・雑誌を持っている方はともかく、投稿されて掲載された方がMLメンバー
にいらっしゃったとは驚きました。
てらじま さん:
>#鉄道写真分科会の設立じゃ。
>
>>ります。探してみよう。あれ、キネ旬発行で、良く知らないんだけどコロタイ
>>プ印刷っつうやつで、白黒がきれいっていうふれ込みの雑誌でしたよね?
>
>それで、カラー頁の無い雑誌だったのか ^_^
あの雑誌はスタート時点から、読者からの投稿写真(こう書くとAρ路線みた
い)中心でした。当時の世の中はまだ白黒写真中心で、カラー写真の掲載枠は
少なかったのです。私が購読開始した時点では表紙(これも投稿写真)以外は2
〜3枚でした。その当時はまだ35mmでのカラーリバーサルの画質も良くなく、
巻末の投稿募集要項には「カラーはリバーサルでセミ版以上」とはっきりと書
かれていました。KRもまだ主流になっておらず、「カラー撮るなら中判」と
いう時代でした。その後編集方針を変更し、蒸気機関車以外の撮影地ガイドを
始めますが、その途中からカラーページを増やしています。
基本的には鉄道雑誌なのですが、写真関連やカメラ関連の記事も多かった雑誌
でした。現役時代の蒸気機関車撮影は圧倒的に白黒写真が多く、当時の趣味人
は白黒写真の現像・焼き付け処理をやっている人も多くいました。蒸気機関車
の場合、本体が艶消しのまっ黒けで、煙が白か黒、末期の主活躍舞台だった北
海道は雪で真っ白で、雪原を行く蒸気機関車の写真は、
「この世で一番白い物と、一番黒い物を1枚のネガに写す」
なんて言われていました。そんなネガですから、普通の焼き方ではなかなか綺
麗に焼けず、覆い焼き等の技術が要求されてきます。当時「いい写真」を作る
ためにはカメラ知識以外に「暗室技術」も必要でした。そのようなわけで、モ
ノクロ写真の引き伸ばし講座や、写真展に関連しての大伸ばしの話なんてのも
あり、結構参考になりました。
で、やっとカメラのお話です。どうでもいい昔話を...
私があの雑誌から多くの影響を受けたのは、何と言っても後半に連載されてい
た「カメラと私」という連載記事でした。これは数多くの投稿をされていた常
連的な投稿者の方にカメラに関する随想を書いて貰った記事でしたが、機関車
好きはカメラ好きも多く、私はこの記事を読んで色々なカメラを知り、そして
カメラ好きになったと言えます。古くは戦前から撮影されている方から、比較
的ブームになった昭和40年代から撮り始めたファンまで、その幅も広いもので
した。撮影当時の経済情勢や、カメラの隆盛・ブームもよく分かります。古く
は組立暗箱からトーゴーカメラ、イコンタやバルダックス、ボルタ判。そして
戦後は☆の数ほどあった2眼レフから始まり、種種雑多な中級カメラが多数登
場しますが(高価なライカ等は殆ど出てきません)、SL時代の鉄道ファンのカ
メラとしてトドメを指したのは、何と言ってもNikonFでした。勿論当時は高
嶺の花で、「土方のバイトをやって」とか「何ヶ月分の給料...」とか購入に
関する苦労も現在の比ではなかった事が分かります。勿論同じニコンのNikomat
ユーザーや、PENTAXSシリーズ・minoltaSRの愛用者もいましたが(F-1以前
のCanonユーザーは少なかった)、当時の最終目標は明らかに NikonF(昭和46
年以降F2)でした。NikonFへの信頼は、使いの荒いSLファンならではの
「耐久性・信頼性」が真っ先にあり、次が「レンズの優秀さ」であったように
感じます。
・そうして私の NikonF信仰は、何人かのSLファンの記事により、より深め
られていったのであった。ああやっと、NikmatMLに近づいた。
またSLファンはブーム以降、アマチュアとしてはかなり積極的にカラーも撮
影していたと思います。印刷技術的な問題(雑誌で受け付けて貰えない点も大
きい)から、35mmサイズでは難しく(プロの広田氏が、CanonF-1+KMで数々
の傑作を残されたりした例外もありますが...)、「カラー撮るなら中判」と
言う風潮が自然にあり、多くのファンがカラーを撮るため、中判カメラとエク
タクロームに手を出しました。当時の最高級機は勿論ハッセルとローライSL
系でしたが、NikonFとは違って、かなり無理しても購入は難しく(更に中望
遠の1本も無いと意味がない)、プロ以外は殆ど使用していません。ブーム中
期よりPENTAX/67や間宮RB67・KOWA SIX等の1眼レフが発売になり、選択肢の
幅も広がりますが、昭和30年代終わりから昭和40年半ばまでは、間宮・善三郎
nicaが2大メーカーでした(minoltaやYashicaも出していましたが、鉄道写真
は中望遠以上が付けられるレンズ交換式でないと主流になり得なかった)。善三
郎nicaは当時国産カメラでは最も高価な部類であり、寒冷地での使用が多かっ
たSLファン(極寒の北海道では、フォーカルプレーンはやはりムラが出やす
かったらしい)には余り行き渡らなくて、価格的に安い間宮ユーザーの方が多
かったようです。特に昭和40年代前半、カラー撮影の機材としてSLファンに
愛されたのが「安くて・レンズ交換が出来て・良く写る」と言われた間宮Cシ
リーズでした(それと引き替えに、速写性がない・レンズが暗い)。
・で、これが尾を引いて今の私のカメラ嗜好が形成された?
...でしょうね。私の頭の中は昭和四十年代前半か...
或る意味ではあの頃は、中判カメラの華の時代だったと思います。
一応終わり
(株)リコー 秦野事業所 宮崎 昭彦
E-mail:amiyazaki@nts.ricoh.co.jp