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[nikomat:21877] Append member.
まつしたです。最近のメールを遡ってます:-p
[nikomat:21717] "Ryota Hiura" writes:
|日浦@MHI/家でもNikomat-MLです。
|
|Tangoya:
|>何故か、撮影術が大きな話題になったことがありません。
|>思うにML会員の多くは、単にカメラが好きなだけなのか、或は
|>入手した機器の性能評価以外には写真を撮らない人達なのかもしれません(う
|ぞ)。
|>日本カメラの月例で銀賞を撮ってしまう人もいます。
|>あるいは、学生時代に無給のセミプロだった人(なんのこっちゃ)もいます。
|
|
|撮影術,写真を話題にすることが,いかにエネルギーを消費し,
|かつ結論を得ることが難しいかということを知悉した分別ある人々
|の集合だからではないでしょうか?(うぞかも)
ここで写真そのものを語るのはなかなか難しいですね。
その理由は、作品そのものを目の前にしないと意味がない(某omoten氏談)とか、
語るに足る言葉がそもそも不足しているとか、言葉になるものは写真のエッセ
ンスではない、などが原因だと思います。
この中で克服できるのは、最初のものだけで、次の2つはいきなり豊富なバック
グラウンドを要求されるのだと思います。
最初のものは、少し前に話題になったスケールとも関係していると思います。
作品からダイレクトに肉眼に入る、という以上に作品をどのように展示して
いるのか、その作品を見る時間帯も関係するでしょう。朝作品を見るのと、
遊園地帰りとか、運動の後とか、睡眠前では観賞者の体の状態が違いますよね。
2番目は、視覚で感じたものを雄弁に語るだけの言葉が用意されてないという
ことです。また、広辞苑の載っている言葉を全てフル活用できる方がおられたと
仮定して、相手に伝えたいことが完全に再現できるでしょうか。できませんよね。
3番目は既知の概念やお決まりのパターンの繰り返し以上のものを持った
ものが作品たるものではないのかという意味ですね。夕日を写しても、それが
夜の前の夕方の太陽を写した以上のものが移っていないと作品とは言えない
というような意味です。それを読みとるのは、作品そのものだけではなかなか
辛いと思います。
話自体が大げさに感じられると思いますが、でも、ちょっと深くいこうと
するとすぐにこれらの問題がちらついてくるように思います。
|わたしは最近,複数コマ使ってべた焼きでパノラマを作るとか,モノクロ
|実験的写真術に手を出しつつあります。ポラロイド665を敷き詰めた
|べた焼き作品を構想中。
東京都写真美術館で、韓国の作品だったか、P6の駒重なりのように画面を
1/3程オーバーラップさせて時間推移を写そうとしたものがありましたし、
画面を細かく縦に寸断して微妙に上下にずらしたものとか、連続撮影の
駒をベタ焼きした作品とか、いろいろ工夫された作品を見てきました。
ある雑誌では、体育座りしている人物をさまざまな角度から撮影して、
木でつくった実物大のポーズにそれらのプリントを張り付けて立体を
再構成するという作品まで出てきていて、その手の加工作品はかなり
やりつくされたような、脱力感を感じています。自分で何かやろうとしても
大抵誰かが既にやっている。そんなことに拘らずに実際にやることには
意味がありますが、写真の場合は既に誰かがやっているというだけで
意欲が萎えてくるような気がします。写真はすぐに陳腐化するというは
私の最近の認識です...
陳腐化ということに対して対策しているのは荒木ですね。撮りまくって
写真集を出しまくって、消費する。写真が、缶ジュースのように消費され
ていく。すでに実体としてのプリントじゃなくて、消費過程が作品作りと
して荒木を成立させているような気もするんです。
日浦さんの話の腰を折って、いったい何が言いたいかと申しますと、
写真って一体何を写すものなのか、自分でわからなくなってきたという
ことなんです。あぁ、この気持ち、どうしたらいいのか〜(^^;;
|#シノゴ引き伸ばし機導入が非現実的と気づいただけという説もある。
# 45カメラで伸ばせばいいような...
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松下 健治
e-mail To: kenji@comm.yamaha.co.jp