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[nikomat:21896] Re: Meaning of photograph
ひうら@きょうだいです。
まつしたさん:
> ここで写真そのものを語るのはなかなか難しいですね。
> その理由は、作品そのものを目の前にしないと意味がない(某omoten氏談)とか、
> 語るに足る言葉がそもそも不足しているとか、言葉になるものは写真のエッセ
> ンスではない、などが原因だと思います。
確かにそうかもしれません。
写真を前にせずにいろいろ語っても(共通の作品、たとえばアンセルの
著名な作品などであれば、共有体験があるので良いと思いますが)
あまり意味がないという意見ですね。これには賛成です。
そういう意味であまり ML では写真について語るのは難しいですね。
でも、ひとたび写真を前にすると、そういう心配は無用だと思います。
「むーん。・・いいねぇ。」「綺麗だねぇ。」「気に入った。」
「これちょうだい。」
そういう主観的な評価で十分なのではないでしょうか??
そう思ってもらえるものが出来れば、僕としては十分だと思って
いますし、一番嬉しいです。
> 最初のものは、少し前に話題になったスケールとも関係していると思います。
> 作品からダイレクトに肉眼に入る、という以上に作品をどのように展示して
> いるのか、その作品を見る時間帯も関係するでしょう。朝作品を見るのと、
> 遊園地帰りとか、運動の後とか、睡眠前では観賞者の体の状態が違いますよね。
これなんですけど、あくまで私的に写真を撮る僕の場合、自分と
体験を共にしていない第三者に写真を見せる必要はないわけで、
極端な話 他人にはまったく意味のないような写真でも、
あとから見てその当時のことを思い出したり、過去に体験を共有
した人と、その体験を無言のうちに想起したり、というような
ものが写真の醍醐味と思っています。
ポラも画質は最低ですけど、あとから写真を見たときに、その
写真に、撮った直後に見せあって批評したりした記憶も
embed されていたりするので、おもしろい、とか感じてしまいます。
もちろん、綺麗だなぁ・・という風景写真もありますが、それとて
地球上に住む人間としての、過去の共有体験を想起しているわけで、
そういうものなくして、つまり観察者の経験や心なくして、
写真単体では何らの意味も持たないのではないか?と思うわけです。
そう考えると上記のような、時間帯によって感じ方が変化するのも
またおもしろいものだし、その時々や時期、年齢によって
いろんな意見がでるのもおもしろいと思います。
> 2番目は、視覚で感じたものを雄弁に語るだけの言葉が用意されてないという
> ことです。また、広辞苑の載っている言葉を全てフル活用できる方がおられたと
> 仮定して、相手に伝えたいことが完全に再現できるでしょうか。できませんよね。
そうですね。でも、
「この写真、僕は好きだなぁ。」でも、よいのかもしれません。
だけど、これでは、写真を見たことがない人にはなにも伝わらないですね。
これは、もう どうしようもないのではないかと思ってしまいます。
> 3番目は既知の概念やお決まりのパターンの繰り返し以上のものを持った
> ものが作品たるものではないのかという意味ですね。夕日を写しても、それが
> 夜の前の夕方の太陽を写した以上のものが移っていないと作品とは言えない
> というような意味です。それを読みとるのは、作品そのものだけではなかなか
> 辛いと思います。
新規性とか、異化効果とか、そういうものが必要ではないかという
ことですね。たしかに人の写真(特に写真雑誌の投稿写真など)を
見たときに、そういうものをつい要求してしまいます。
で、おもしろい写真というもののためには、そういうものも
スパイス的に必要なのだろうなと思います。
でも、写真の本質ではないかもしれません。
例えば、最近カラー全盛なのに、逆に白黒が人気があったり、
僕自身も最近白黒に興味を持っているのは、写真を見る人に
色成分を補完させることによって、より写真を楽しむことが
出来るのではないかと思うからです。
#山水画の名画は七色を放つ、といわれるのと同じことですね。
こういう抽象化もまたおもしろいですし、またひたすらリアリティの
あるものもまたよいのではないかと思うのです。
シャープに描写した街の写真を、じっくり端から端までなめるように
見るのもそれはそれで結構好きです。よく見てると、歩いている人
それぞれにいわくありげに思えてきます。
でも、ただの街・・・といえばそこまでです。
もうひとつは、なぜこの瞬間にシャッターを切ったのか?
というものですね。単にフィルムを終らせたかっただけだから、
というのもあるにはありますが・・
かなり自分自身の内的なものに向かう考察ではありますけれど。
で、こう言う風に思うと、いろいろあるとおもうのです。
確かに、こんなん撮ってどうするのん??って言われますけど。
でもそれを楽しむのも、写真好きではないかなとも思います。
で、個人的には、現在のところ、あまり新規性とか、独自性と
いうものにはこだわっていません。
#仕事と反対に行きたいから??
むしろ自分自身や自分自身の身の回りに密接に結び付いた
何かを撮りたいと思っている感じです。
日本の小説には私小説が多いといいますが、そういう私小説でも
小説と呼ばれるのですから、それはそれでもよいのかもしれません。
ただし、それは自己満足的、とは違うと思います。
こやのさんの、例の雑誌に乗った写真ありますけれど、
(普通の台所で、妊娠中の奥さんの足の爪をこやのさんが
切っておられるところの写真です)これなどもアングルや
撮り方、表情などが ぱっ と目を引くスパイスになっていますけど、
でも写真そのものはかなり私小説的だと思います。
だけど、やっぱりその状況の微笑ましさとか、そういう共有体験とか
想像があって、それで本質的に楽しめるというものなのかも
しれません。
もちろん万人に感動を与える写真も撮りたいとは思いますが・・
それが陳腐な、ありきたりの写真でも、単に、あぁ新緑が
綺麗な山並みだなぁ。とか、夕焼けの色が綺麗なぁ。
でも、十分な気がしています。
非常にプレーンな、弱い感動ではありますし、
ことさら人に、「綺麗だろ?」と見せるわけにもいきませんが。
それと、ついたくさん撮って比較してしまいがちですが、
そうではなく、ふらりと車でドライブして、ふとマキナ取り出して
海を撮るとか、そういう一期一会的撮影なんていうのも、
理想形のひとつとして思い描いています。
例えば近所の銀閣寺でも、先週末の送り火とかでも、
やっぱり撮ろうと思って行ってしまうと、すごく心苦しいのですが、
普通の寺で、なんとなく鐘を撮るというのはよかったり
するんですよね。そういういいものを発見したときに、
一人で、すかっ とした気分になるときあります。
#だからときどき、「ええいっ」とほとんど全てのカメラを
#売却したくなる衝動を感じます。・・でも買ってしまう。
#あ、これ撮りたい、と思ったときに、それ撮る機材がない
#ときの悔しさというものもありますからね。
#サーキットとか、送り火なんて、望遠レンズいるもんねぇ・・
> |わたしは最近,複数コマ使ってべた焼きでパノラマを作るとか,モノクロ
> |実験的写真術に手を出しつつあります。ポラロイド665を敷き詰めた
> |べた焼き作品を構想中。
>
> 東京都写真美術館で、韓国の作品だったか、P6の駒重なりのように画面を
> 1/3程オーバーラップさせて時間推移を写そうとしたものがありましたし、
> 画面を細かく縦に寸断して微妙に上下にずらしたものとか、連続撮影の
> 駒をベタ焼きした作品とか、いろいろ工夫された作品を見てきました。
>
> ある雑誌では、体育座りしている人物をさまざまな角度から撮影して、
> 木でつくった実物大のポーズにそれらのプリントを張り付けて立体を
> 再構成するという作品まで出てきていて、その手の加工作品はかなり
> やりつくされたような、脱力感を感じています。自分で何かやろうとしても
> 大抵誰かが既にやっている。そんなことに拘らずに実際にやることには
> 意味がありますが、写真の場合は既に誰かがやっているというだけで
> 意欲が萎えてくるような気がします。写真はすぐに陳腐化するというは
> 私の最近の認識です...
単純に遊んでみる、というのはそれはそれでいいような気がします。
試しに亮太が作った、この張合わせ写真(ハッセル + 80mm の
写真を並べてベタ焼きしただけ)を見ましたが、それは単に
ダム湖だったかなにかを写しただけのものでしたけど。
でもおもしろかったです。少々黒い枠があっても、鑑賞の邪魔には
ならないもんだな、と。
といいつつ、いろいろ試して新しいものを考えようとしていますが・・
> 日浦さんの話の腰を折って、いったい何が言いたいかと申しますと、
> 写真って一体何を写すものなのか、自分でわからなくなってきたという
> ことなんです。あぁ、この気持ち、どうしたらいいのか〜(^^;;
あまり人に見せることを意識せずに撮ることではないかな、
というのが最近の僕の思いです。
普通の人のように楽しめるのが一番かも知れません。
では。